大量虐殺を起こさずに独裁者を倒す方法

前回↓の続き。

なぜ暴力はいけないのか? - Flamingo Diaries

実際に独裁者が現れた時、大量虐殺を起こさずに独裁者を倒すにはどうしたら良いのか?

その方法について、非暴力闘争という考え方が100分で名著の中で紹介されてました。

 

考案者はジーン・シャープ。彼の考え方をもとに、過去にはリトアニアソ連の侵攻を阻止、セルビアでは独裁者の追放に成功したそう。

実際に何をするのかというと、具体的な活動内容としてはデモやストライキのようなこと。ただし、それを天安門事件のような大虐殺にさせずに成功させるための方法、が主題となっていました。

 

以下、覚え書き。

大前提として独裁者に対しては、暴力より非暴力のほうがまだ勝算がある。なぜなら独裁者は圧倒的な暴力を持っているので、一般市民が暴力で対抗するのはかなり難しい(実際、暴力闘争より非暴力闘争のほうが成功率が高い)。

ただし、独裁者と対話をすることは不可能(対話をしたところで、その公約を守らないから)。

なので独裁者を支えている民衆、機関、公務員、特に警官や軍の士気や忠誠心を砕くことによって、政権を支える柱を弱体化させることを目指す。

活動では、警官や兵士を対象に、あなたたちも犠牲者であり自分たちと同じ仲間である、と感情に訴えかける内容にする。

デモなどの活動に参加することは、命の危険にも繋がるので、特に公的機関の人間に、それを強要しない。隠れた不服従から始めてもらう。非効率的に働く、報告が遅い、指名手配犯が見つけられない、などなど。

非暴力闘争は、心理的、社会的、政治的戦略による戦争であり、通常の戦争と全く同じように、冷静に物事を判断できる有能でカリスマ性のあるリーダー、周到な準備と計画的戦略、よく訓練された人々が必要。

盛り上がりによって引き起こされたデモやストライキのような、一時的なムーブメントは、失敗に終わる。

非暴力闘争は、大量虐殺にはならないが、犠牲者は出る。独裁者による残虐行為を世界に配信し活動に利用する。

独裁者を倒してからが本当のスタート。即座に民主的政府を作り、政治的空白を開けないこと。軍のクーデターに注意。アラブの春は、独裁者を倒したあとが上手くいかなかった。

現代の独裁者は、非暴力闘争をよく知っていて、そしてよく研究しているはずだそう。最近では、香港で非暴力闘争が行われたけれど、あまり上手くいってなさそう。

非暴力闘争には、相当優れたリーダーと計画性と根気が必要だと思いました。

 

余談。

オオカミの群は、自分達がより良い環境で暮らせるよう、他のオオカミの群と常に縄張り争いをする。ライオンも、トラも、サルもそう。自分達のより良い暮らしのために、同種間同士で、国境で殴り合いをする。

それを思えば、人間の進化というのは、素手での殴り合いから武器を使うようになっただけで、文字を使い始めた4000年前から現在まで、やってることは動物と何も変わらない。

隣国同士の殺し合いというのは、人間が動物として持ち合わせている生存戦略的な本能なのかもしれないなと思いました。

なぜ暴力はいけないのか?

去年のオスカーでの出来事。コメディアンのクリス・ロックが、ウィル・スミスの妻の見た目について、侮辱的なジョークを言いました。それを聞いたウィル・スミスは壇上に上がり、クリス・ロックをビンタ。

クリス・ロックは無神経だよね、という意見はあったものの、厳しい非難と処分を受けたのは、ウィル・スミスでした。

 

どんな理由であれ、暴力は許されない。人間社会では、そういうことになっています。

 

 

なぜ暴力はいけないのか?

 

暴力は、問題の解決手段になり得ないからだと思います。

 

もし暴力を良しとすると、

力の強い人が、暴力を使って弱い人を捩じ伏せて、自分の言うことを聞かせることができてしまう。

 

そんなやり方で捩じ伏せられた弱い人は、納得するどころか、ますます不満と怒りを感じてしまう。

 

弱い人が自分の意見を通すには、もっと強い力に頼るしかない。

それは刃物や銃や武器だったり。

 

そうすると次は流血沙汰になったり、死人が出てしまうかもしれません。

だから、暴力の先にあるのは解決ではなく、暴力の連鎖です。問題を悪化させて、破滅しかありません。

 

そんなことにならなかったとしても、力で相手を捩じ伏せることは、決して理想的なゴールではないし、表面的には問題が解決したように見えて、実際は問題を更に大きく、根深くしてしまいます。

戦闘に介入した国が、結局撤退することになったのも、各地でテロが起きるのも、まあそういうことなんだと思います。

 

自国民が傷ついているように、相手の国にも、父親を失って辛い日々を過ごしている子供たちや、息子を失って生きる意味を見失ってしまった母たちがいるはず。

どちらが正しい、間違っているは一旦置いておいて、双方の人々がどれだけ傷ついているのか、暴力がどれだけ醜く馬鹿げたものなのか、それを世界中の人々に知らしめるのが、報道やジャーナリズムの本来の意義なのではと思います。

 

戦争は、多くの国民の納得と支持がないとできません。

 

そのために権力者は、いかに敵対国が悪く、いかに身内が不当に傷つけられいるかを訴えて、軍事の正当性や必然性を主張します。

 

どんなに大義名分が立派で正当性があっても、暴力は決して解決手段にならない。

これを全世界の絶対ルールとして一般市民が認識しない限り、あっという間に世界がまた大戦や冷戦のように二分され、一般市民は権力者の良いように使われてしまうのかなと思います。